昭和44年01月27日 夜の御理解



 信心は何と言うても、形でするものではなくて思いでするものだと言うことを思いますが、あの取り分けこの霊祭、霊様ごとにあのう関しては特にそれを深く感じますね。今日は宮崎さんの孫の宮崎友太郎さんのお兄さんにあたられる、又今の奥さんの先の御主人にもあたられる訳ですが、亡くなられたお立ち日に当たるからという事で、あのうまぁここは秘かにあのう、自分とまぁ忘れ形見である東京の俊夫さんと、何時いつはあのうお父さんのお立ち日だからと言うので。
 まぁ親先生にお願いしてから霊様にちょっと御挨拶をして頂きたいと言うておられたのが、あのう以前にお取り次ぎをさせてもらっとりましたけれども、ど忘れてしまつて居った。それ今日あのう御祈念の前にお参りして見えてから、細やかなほんな事ですけれども、ちょっと生前好きであった様なものどもと言うて、あのうお届けがございましたから、私もことすぐあのうお取次ぎをさせて頂いたんですれけれど、私の御心眼に頂きますのがね、あのハマグリのこうハマグリの口を塞いどるところを頂くのです。
 これはどう言うことじやろうかと、あのうよう貝なんか泥なんかがこう中にこう入った、詰まった様な塞いだなりこうしとるのがありますよね、腐って居るハマグリ貝です。それで私はそうじゃろうかと思うて。したら神様がその貝をこうやって開けて見せて下さるんですよね。中には昔はあのハマグリ膏薬と言うのがありましたでしょうが、中に薬がいっぱい入ってあれを容器にしてあるのですね。これはどういうことかと言うと、誰にも言わずに、誰と不浄がかかってもならんし。
 誰にも言わずに心秘かにと言うのが、こう口を塞いでおるそのハマグリのおったらしいんです。けど中には中にはあのう膏薬が一杯入っておる。もしや御存じないですけれども、やはり私の方のあのう妹のことも同じ事で胸の病気でした。でしたからもう本当にあのうまぁ言うならば、その時分まではですね、あの村内の者でも本当にあのう、しばちでも本当に心よう例えば御葬式でも、まぁもうそれがもう常識になってましたですよね。私の妹のところの亡くなった時なんかもそうでした。
 もう家の者はもう箸ひとつ使われませんでした。御葬式の時でも。そりゃもう外でされましてですね。ですけれどもそういう様なでしたけれど、今日私霊様にご挨拶させて頂きましたら、何と言うでしょうかね、あの一時大変難しい状態病状であったのが、小康を得られた事があるんです。もうこれではもう良うなられるんじゃなかろうかということがあったんです。いつもその当時佐賀にはね善隣会と言うのがありましてね。もう非常にあのう島川にかえてもあちらへ参られまして。
 もうおかげ頂いたもう良うなったと言うては、そのまぁ大変いわゆるなんですか殺された時代があったんです。やっぱそういう様ななんですね。もう休んでおられると言うのにですね、あら起きて見えて私のにやって見えてですね、もうそのう私にお道引きにきちゃぁるとです親が。はぁりゃもう金光様も有り難ばってん、善隣会はもうはたかる状態だと、次は私を見て下さいとこげんおかげ頂いたと、とにかく善隣会のまぁそのう、まぁ教祖様と言うですかね方が言われるのは。
 全ての事に感謝せよもう感謝一つで助かる。私を見て下さいおかげ頂いたというそのう、まぁ話に見えた事があるんです。そん時の事を今日頂くんですがね。それで私はそん時にそれに対してから話した事を、あの文男さんあのあのね金光様でも何様でも同んなじ、もうあの感謝さえすりゃ、本当の感謝が出来りゃおかげ頂く。「この方の道は喜びで開けた道じゃから、喜びでは苦労はさせん」と仰る。なら本当にそうじゃけれどもね、ただあの感謝ひとつじゃいかんと。
 例えばもうその代わりもう水一杯頂いても感謝して頂きよると言う話でしたから、はぁあのうもうね成る程今までは感謝もなしに、当たり前様に頂いておった事時よりも良いだろう。けれどもねあのうその水に感謝したんじゃ詰まらんてね。これはね私は金光様の信心ではそれを思う事はね、水がそのまま有り難いけれども、もうひとつその向こうのものもうひとつ向こうの働き。そのお水のもうひとつ向こうの働きに対してお礼を申さねば、いわゆる水を通してお礼を申し上げるという感謝でなからなければ向こうに通わん。
 例えばんならここでは、ある病気ですらがあのうおかげとこう言うておりますが、その病気ですらがとこう言われとりますがね、その病気のもう一つその向こうのものに気付かにゃいけん。これがお互いが難儀と言うておるけれども、難儀のもう一つ向こうに御神意がある。それを分かって、生活状態と言うか心の状態が変わっていくことを、悟りを開くという風にも言うけれどもね、というてその時の話を私がさせて頂いたことを、今日私その頂いてですね、本当にあの通りでしたと言う意味の事を頂くんです。
 そいでその後こうやって、宮崎さん達夫婦の後々の信心。しかも俊夫さんまであげん熱心に、金光様の御信心を頂くようになったという事がですね、こうして御縁が本当にあの生きて、そして霊様の上にまでこういう働きを頂いておるという事を、まぁ有り難い。けれどもここに私は感じました事はね、本当にそのう霊様のあぁ言う病状というか、身体の状態というものは、まぁだこの世での苦しみといった様な、もうあの世に死んで行ったらね、もう苦労はなかろう様にあるけどそうじゃないようですね。
 はぁこちらで悩みがあればあちらにでも悩みがある。こちらで病気をしたら、あちらでも病気がある。けれどもそれを癒す術は、どういうかとかと言うと本人の信心修行の徳は勿論ですけれども、これは後に残った者の真心の信心だと思うのですね。今日私が頂きましたのは、そのう中が中味が薬という、それを大変喜ばれたように思われます。それが私はいよいよ何と申しますかね、安心の霊という様な事を申しますが、いわゆる健全な心の霊としてのおかげの頂けれる様なものを感じさせて頂きました。
 本当にあのう実は何日はというに、ここに思いを掛けて、そしてあのう霊様に思いを込められたという、込めておられたということが、それは誰にも言わん。いわば心に自分の心の底に思うて、その事のことが今日なされた事が、口をつぐんたハマグリの様なものじゃなかったろうか、そしてその内容には、本当に自他共にいうなら自分も有り難いけれども、霊様にもそれがねお薬のように響いて行った事を、有り難いとこう思うて霊ながらにも、やはり一段と深い悟りを開かれてね。
 おかげを被って行かれる様子を見るような思いが致しました。今日は私何年振りだったでしょうか、椛目のあのまぁ自転車屋さんであります引野さんのところの弟さん、これはもう私の本当のいわゆる竹馬の友であり、友であってもそのう特に親しくしとりましたが、そのう今日突然やって参りましてから、今日はその娘が明日明後日にそのう結婚、結婚式だそうで一番下の娘が、そおれで今日はお墓参りに来たち言う。そこでちょっとここにお届けがつかえておりましたから、あの家内が応接に通しとりました。
 もうそれでほんにあのう下がりましたら、そこはそのう娘さんも一緒にいやゃよかとに、自動車に乗っ取るからと、まぁ呼びなさいと言いよるところに入って見えたんです。はぁこの人ねこれが一番下の娘さんじゃったね。と言ったらいいにゃこりゃ今度の家内ち言われる。ほんな若い奇麗な奥さんを迎えてですね。先年でしたか亡くなられて居られました、それが丁度宮崎さん達の様な風です。そのう奥さんの妹さんを、一番下の妹さんだそうですから、若くて大変奇麗な奥さんでしたが。
 そりゃ娘さんはあぁたあのう乗っとるとを言うて降りて頂いた。それからまぁいろいろ昔話によもやま話に、二時間位居られましたでしょうか、お食事どもあげて帰らせて頂いたんですけれども、もう何んて言うでしょうか、もう本当に私はね、亡くなられた先のいわばあのう奥さんがですね、何んかこうもう私共がこうコタツを囲んでお食事さして頂よりましたらですね、もう本当にその霊さんの喜びをですね、目の前に見えるようにそこで頂くのです。あの人達に信心がないから言うても同んなじだけれども。
 ははぁ後々がこのように、それがあのう今度娘さんが嫁入られるのに、家にも何人も嫁にやったり貰うたりしたけれども、今度んとは今度一番下の妹がもう一辺松岡さんすぐ近所です。それで松岡さんにいっぺん聞いてくれんの。そりゃもう博多でもこげな御祝儀着や、こげな道具でも持たしてやるところは、ゴロゴロあるみちごたるとを、これがと言うて新しい奥さんがです、家内があのうしてくれたから、もうこれが一番幸せして、これが一番あのう沢山の物を持って嫁入ると言うて言うておる時にですね。
 前の奥さんの大変な喜びを感じるんですよね。それにあのう後々が立ち行っておるということですよね。宮崎さんのお宅でもそうです。本当あのう宮崎さんの例えば俊郎さんの奥さんなんかでも、それこそ最高学をといわゆる東京の大学に行って、まぁ思う存分の勉強をさせてやろうと言われるような、そのう勿論俊郎さんは自身では、なんかそのうそういうこと知らんのかも知れんのじゃないかと思うんですね。本当のお父さんだとこう思っているのかも知れませんけれども。
 あのうそのことがですね。あのう残られた者じゃなくてから、その霊様に通うその喜びと言うものも、その事から合わせてこう感じられます。人間の運命とかいうものは、中々人間の思うようには参りませんけれども。私信心によってその事がです、例えば難儀な事でありましたけれども、その事が基礎土台になってよりよいものが開けて来る。よりよいいわば進展がそのうなされて来るというところに、私はお道の信心のおかげって言うものを感じます。
 森国さんの場合と宮崎さんの場合も同じ様な事が言える。しかもそれをただあぁそうだけじゃなくて、今朝から頂きます御理解のように、庭の口に出て見よ空が神下が神と言うことをですね。そのう感じではなくて実際、自分が天地の感動がこの自分たちのこの体に通うて来るような天地、いわゆる神様でなからねばならんと、私今朝から申しましたが、そう言う神様を頂いて、そう言う神様を信じて、そして霊様の事が願われる。
 お取り次ぎを頂いて、そしてあちらへ居られる霊様も、こちらに残って居る者も、皆んなおかげを頂いていけれる、そう言う道に御神縁を頂いて居るということをです、有り難いという意味の事を頂き私は感じさせて頂きました。今日の霊様の御挨拶をさせて頂きながらです。信心は確かに思いでするもんだなぁと、もうヒョィト取って捨てたようなもんじゃいけない。本当に思いに思いを込めてなされたおかげを被って居られる訳です。
   どうぞ。